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ヒストリー

まだまだつづくよ〜!
完読すればかなりのファジーマニア!!

STORY 2
※このお話にには用語辞典がついています。ウインドウの隅っこにおいて お楽しみ下さい。
文中この色になっている 言葉には説明がついています。


文章・FUZZY BRASSの大型記憶装置 大西 善郎

さて、月に1度集まることになって何をしたかというと例の大初見大会!毎月楽譜を用意する担当を決めて楽譜を買ってきて初見大会をしました。おかげで日の目をみない楽譜の多いことといったら・・・・・みんな、あの楽譜どうすんねや?! ここで報告。またの機会に触れますが、メンバーに福島がいることによって今現在も開催されている“あんふぇす”がスタートすることになります。

この頃はそんなことはなんにも考えてませんでした。 1992年も12月に入りそろそろアンコンの曲を決めないといけない時期になりました。候補に上がったのが「フランス・ルネッサンス舞曲集」です。このときから準メンバーに竹内君が加わりました。このとき、魚谷が「冒頭のピッコロTpの楽章は絶対やめて!」という意見が強烈にでてきました。メンバーは少し考えましたが、魚谷が遅れて練習に来るときに「やっぱりこの曲はピッコロTpからはじめんな絵にならへんで!」と福島と私の意見が一致して、遅れてやってきた魚谷に通告しました。 この曲を練習していくにうちに一番つらい苦しい思いをしたのは竹内君でした。

ある練習のとき、「FUZZYにとって最高の演奏をしよう!」という福島の一声でホルンの良い旋律はみんなユーフォにもっていかれてしまいました。この現象はその後何年も続きました。 奈良県大会の演奏はひどいものでした。この当時はフューのSaxが毎年関西に出場しているときでした。結果は僅差でFUZZYが関西にでることになりました。その理由は、「フューの演奏はほとんどできあがっていて関西にいってもこれ以上はよくならないだろう。逆にFUZZYはもっとよくなる可能性がある。」と審査員が言っていた(・・・谷口先生かな?・・・)と初田が言ってました。 みごと可能性で出場できた関西大会。開場であの理事長の佐竹先生が「おう、おまえら調子はどうや?」とおっしゃったのですかさず魚谷と福島が「そんなん先生あきませんよ。銅賞決定ですよ。」という言葉に先生は苦笑いをしておられました。本当にそんな感触でした。練習しても全然なっとくできない演奏とサウンドでした。 が、本番が終わってそこにはメンバーこぼれおちそうな笑顔であふれていました。

越尾君が、「これで銀賞でも僕は満足です。」と言ってました。メンバー全員そんな気持ちでした。それくらい自分達でもびっくりするくらい良い演奏ができて大満足でした。 このときに表彰に向かう係はこの年の5月に結婚が決まっていた越尾君でした。結果は金賞。予想外の結果に会場の後ろのほうの私達のところだけずっとウエーブがおきていました。「全国大会へいく団体は、8番FUZZY ENSEMBLE」・・・・・ ウエーブはおさまらず私以外のみんなは我を忘れてはしゃぎまくり周りを気にせず大記念撮影大会!それも古功のストロボなしの使い捨てカメラで。 このあと古功の実家で夜中の2時まで飲んで騒いで演奏を何度も聴いて自分達を褒め称えました。このとき私は思いました。「俺はFUZZYにはむかない・・・」 このときのエピソードは越尾君をはじめみんないろいろあるでしょうから楽しみにしております。

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